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<古代の漁域>西海(下関)での捕鯨の歴史、っていうお話

  • kujira-takahama
  • Jan 14
  • 14 min read

Updated: Jan 22

近代捕鯨発祥!明治~昭和の日本の捕鯨産業を支えた下関。

水揚げ、加工生産、流通、捕鯨船基地など重要な役割を果たしたんやて!


まいどおおきに。

大阪の中央卸売市場で鯨肉の仲卸をやってる高浜康子です。

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。


今年も商売繁盛を祈願しに、おっちゃんと一緒に野田恵美須神社へ行ってきました。

今年も高浜商店が商売繁盛目指すんはもちろん、美味しいものをたくさんの人にお届けして、私も美味しいものをいっぱい食べられたらええなあと思ってます。

どうぞよろしくお願いします。

おっちゃんは、そんなにベビーカステラ食べたいんかいな…。



では、ブログの本題に。

2025年、捕鯨母船の関鯨丸は、4回の漁を行い計238頭のクジラを捕獲したそうです。

内訳は、ニタリ鯨143頭、イワシ鯨35頭、ナガス鯨60頭。

鯨肉の生産量で言うと計1530トンなんやて、すごいね〜。

10月11日に出漁し、北海道や東北沖で漁を行い、12月2日に山口県下関に帰港したそうです。

おつかれさまでした!

2026年も活躍、期待してますよ!


さて今回は、そんな下関の鯨文化にちなんで、古式捕鯨の基地として栄えた西海(下関)での捕鯨の歴史や文化について、色々調べてみました。

前々回のブログでは平戸での古式捕鯨について調べたんやけど、西海域のもうひとつの拠点となった下関について。

下関市水産課がつくらはった「下関くじら物語」いうリーフレットを参考にしています。

今回は、ちょっと楽してブログ書いたけど、中身はとっても勉強になるんで、ちょっと読んでみたって~。



 

<参考>


・捕鯨母船が山口・下関に帰港 ナガスクジラなど238頭を今年度捕獲


・下関くじら物語 下関水産課


・蜂谷ビル(旧東洋捕鯨株式会社下関支店)



【目次】


<高浜商店の美味しい鯨肉>高浜商店オリジナルはりはり鍋セット




下関での捕鯨の歴史


下関は古くから鯨との関わりが深い地域です。

縄文時代後期の六連島遺跡、弥生時代前期の綾羅木郷遺跡、弥生時代中期の吉母浜遺跡、古墳時代の蓋井島遺跡等から鯨骨が出土しています。

ヘラ状をしている鯨骨もあり、アワビオコシ(アワビを岩から採取する時に使う道具)として使われていたのではないかと考えられています。

当時は、組織的捕鯨ではなく、 座礁して岸に打ち上げられた「寄り鯨」や、傷ついて漂流した「流れ鯨」を捕獲していたようです。

 

中世に入ると「平家物語」の中で、壇ノ浦を舞台にしてイルカが登場します。

源平壇ノ浦の合戦の勝敗を天文博士に占わせたところ、関門海峡に突然たくさんのイルカが出現し、平家の軍船の下を通り抜けていったという逸話があります。

 

山口県では、江戸時代の1570年~1573年(元亀年間) にクジラの通り道であった長門、萩周辺の各浦に「鯨組」が置かれ、沖を通るクジラを「勢子舟(せこぶね)」と呼ばれた小船で追いかけ、銛を打ち込んで捕獲する古式捕鯨「長州捕鯨」が始まったとされます。

下関では旧豊北町の島戸、和久、肥中、角島などで古式捕鯨が行われた形跡がありますが、規模は小さいものだったようです。

下関は北前船の寄港地で中継地であったことから、長州捕鯨による鯨肉・鯨油・鯨骨の流通・集散地となり、北前船を通じて各地に送られていたそうです。

 

長州藩は有力な財源として捕鯨を奨励し、明治期まで力を入れていましたが、ロシアが日本海で捕鯨活動をしたため、沿岸の古式捕鯨は衰退していきました。

 

明治時代、山口県出身の岡十郎は、日本の捕鯨技術を飛躍的に発展させました。

ノルウエーに渡り近代捕鯨を学び、山田桃作とともに1899年(明治32年)、長門市にノルウェー式捕鯨会社である「日本遠洋漁業株式会社(後の日本水産)」を設立。

出張所を下関に設置しました。

山口県は近代捕鯨の発祥地とされ、下関市の日和山公園には岡十郎と山田桃作の顕彰碑があります。


 

「日本遠洋漁業」はその後、合併により「東洋漁業」「東洋捕鯨」「日本捕鯨」と名前が変わりましたが、日本国内での鯨肉集散拠点地の1つであった下関には支社、支店が置かれました。

「日本捕鯨」を設立した国司浩助の提唱により、1934年(昭和9年)に南氷洋捕鯨が始まります。

一方で、下関に本拠地を置く「林兼商店(後の大洋漁業) 」は1922年(大正11年)捕鯨部を新設し、近海捕鯨に乗り出しました。

1936年(昭和11年)「林兼商店」の中部幾次郎が「大洋捕鯨株式会社」を設立し、翌1937年から南氷洋捕鯨を開始。

下関では、戦前戦後を含めて南氷洋捕鯨の冷凍鯨肉の水揚げ地、鯨肉加工品の生産拠点、捕鯨船の基地として、関連産業とともに水産都市発展の一翼を捕鯨産業が担っていました。

下関漁港への鯨肉の水揚量は1958年(昭和33年)に1万トンを超え、昭和30年代後半から40年代にかけて2万トンに達しています。

 

下関では古くから鯨食文化が発達しており、正月・節分などに鯨肉を食べる食文化が残っています。

市内には鯨肉の専門料理店や専門小売店もあり、1958年(昭和33年)には大洋漁業の直営レストラン「日新」があったそうです。

下関では鯨肉のハム、ソーセージ、缶詰等も生産され、昭和30年代には鯨肉のソーセージの年間出荷額が約40億円にものぼったとのことです。

現在も市内の量販店や飲食店で鯨肉や料理を扱っている店舗も多く、下関のクジラ文化を支えています。

 

※写真はPhotoACより


<参考サイト>


・下関と「くじら」





下関の捕鯨で活躍した人たち


下関での捕鯨の歴史において、重要な役割を果たした人物について紹介します。

 

【岡 十郎】

1899年(明治32年)単身ノルウェーに渡り近代捕鯨の導入に努め、同年、山田桃作らと共に日本初のノルウェー式捕鯨会社である「日本遠洋漁業株式会社」を創立しました。

長門市仙崎に本社、下関市に出張所を置き、日本初の国産鉄製捕鯨船「第一長周丸」を建造。

同社は後に「東洋漁業株式会社」「東洋捕鯨株式会社」に発展し、現在の「日本水産」へとつながります。

「長州捕鯨」の伝統をバックグランドに遠洋漁業を目指し、捕鯨船団となって南氷洋に向かうこととなりました。

 

【山田 桃作】

明治時代に入り網捕式捕鯨が衰退を始めると、親戚である岡十郎の影響を受け捕鯨業の近代化を訴え、仙崎で「一〇捕鯨会社」を起こして近海捕鯨に乗り出すが不調に終わりました。

ノルウェー式捕鯨法に衝撃を受け、岡十郎と「日本遠洋漁業株式会社」を創立。

資金面を担当し、鯨油などの販売を開始しました。

後に「東洋捕鯨株式会社」となると、桃作は監査役に退き、同社が捕獲した鯨肉を原料とする食料加工品や海産物を取扱う委託問屋 「伊佐奈商会」を大阪で設立し、当時一般の嗜好に適さなかった鯨の赤肉を、今日の日本の鯨食文化へと高めました。

 

【国司 浩助】

1911年(明治44年)若干24歳で、「日本水産株式会社」の前身「田村汽船」漁業部の主任として下関で汽船トロール漁業を始め、自ら漁船に乗り込み精力的に事業を拡大。

さらに、世界中の漁場に出漁できる体制確立に貢献しました。

1934年(昭和9年)「東洋捕鯨株式会社」と「日本産業株式会社」を合併して「日本捕鯨株式会社」を設立し、母船式捕鯨事業として遠洋漁業の理想を具体化し、ノルウェーから図南丸を購入、その活路を求め南氷洋に出漁。

試験操業に確信を得て第二図南丸を建造し、 捕鯨王国としての日本の地位を築きました。

 

【中部 幾次郎】

1904年(明治37年)、大陸周辺の漁場開発をするため本拠地を下関に置き、1913年(大正2年)「大洋漁業株式会社」の前身「林兼商店」を竹崎町に開設しました。

同社は水産業種全てを直営するという方針のもと底引き網漁に着手し、冷蔵運搬船や大型冷蔵施設を建設。

さらに缶詰製造や漁具漁網の販売も進め、南氷洋捕鯨にも参入していきました。

1936年(昭和11年)、国内初の国産捕鯨母船「日新丸」と、8隻のキャッチャーボートを建造し、1,100頭余りの鯨を捕獲。

戦後、鯨肉は大切なタンパク源であるという考えから、捕鯨の再開を連合軍総司令部に働きかけ、それを実現させました。


※写真はPhotoACより





日本の捕鯨法の変遷


日本の捕鯨は、江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、独自の形態で発展してきました。

突取式捕鯨は現代でも、比較的小型の鯨類において継続している地域もあるそうです。


【網取捕鯨】

クジラの捕獲に主として網を用いる方法です。


《断切網(たちきりあみ)捕鯨法》

クジラが入った入り江を網で締め切り、奥に追い込んで捕獲する漁法。

もともとイルカや小型クジラを対象に、原始、中世から今日に至るまで、各地で行われてきました。

対馬では15世紀初頭に、この漁法と思われる漁法により、イルカとともに「八海の大物」と記されたクジラを捕獲しています。

丹後(京都府)伊根浦では明暦2年(1656年)頃から大正時代にかけて、大型クジラの捕獲のために行われています。


《定置網捕鯨法》

漁場に固定設置された網(定置網)を用い、クジラを捕獲する漁法。

大規模な定置網が発達した戦国時代末期以降、能登や西海など各地で、主要な漁獲対象だったマグロ・ブリ以外に入り込んだクジラの捕獲が行われてきました。

文化9年(1812年)には、五島魚目の柴田甚蔵がマグロ大敷網(おおしきあみ)を改良してクジラ専用の大敷網を考案。

当時主流だった網掛突取法に比べ、経費を抑えることができたそうです。

江戸時代から明治にかけて、片浦(鹿児島県)、宇久島(長崎県)、神集(かしわ)島(佐賀県)、窪津(高知県)など各地の漁場に導入されました。



【突取捕鯨】

主として、銛や剣などの手投げの道具でクジラを突いて捕獲する方法です。

銛には刺さると抜けないよう「返り」という逆方向の角があり、付いている網で船などの抵抗物を曳かせてクジラを弱らせます。

剣は先が尖っていて、クジラを突いて仕留めます。


《突取捕鯨法》

銛と剣でクジラを突いて捕獲する漁法。

縄文時代から行われていたと考えられますが、元亀年間(1570年~1573年)、伊勢湾で専業の鯨組が行う漁法として確立。

改良されながら、安房、紀州、土佐、西海の各漁場に伝わったとのことです。


 ※写真は「生月町博物館『島の館』」のもの


《網掛突取捕鯨法》

クジラをあらかじめ網に絡ませて動きを抑えてから突取を行う、日本独自の漁法。

延宝5年(1677年)、紀州太地で確立し、土佐、西海に伝わり主要な漁法となりました。

網の張り方には、繋げて包囲する紀州式と、弓なりに張る西海式があり、古式後期にはナガス鯨を捕獲するため改良されました。


《洋式突取捕鯨法》

銛と槍(ランス)を用いる、欧米起源の突取法。

11世紀頃ビスケー湾岸のバスク地方で始まった捕鯨業で行われ、オランダ、イギリス、アメリカに伝わりました。

17世紀には、大型帆船をボートの母船と解体・加工に用いる母工船型が成立し、漁場を世界中に広げました。

日本でも幕末以降、限定的に導入されたそうです。


《アイヌ突取捕鯨法》

毒を塗った銛で突き、弱って座礁したクジラを確保する漁法。

北海道噴火湾岸のアイヌ民族が20世紀初頭まで行っていたそうです。

また5~9世紀頃オホーツク海沿岸部に居住したオホーツク人も、突取捕鯨を行っていました。



【銃殺捕鯨】

銃を用いてクジラを捕獲する方法です。捕鯨で用いる銃とは、船体に固定されない火器のこと。

一方、1846年にアメリカ人アレンが発明した「ボンブランス」は、内部に爆薬を装填した弾体(炸裂弾)です。

欧米の捕鯨では、当初、木柄の先にボンブランスをつけて直接クジラに投射しましたが、その後、木柄の先端に銛と短銃を付け、投げつけてクジラに接射するダーティングガン「ポスカン銃」や、離れたところから銃や砲などで発射する方法などが考案されました。

銃殺捕鯨法もこの一種です。

ただし欧米では、ボンブランスは概ね従来の突取捕鯨の枠内で、槍(ランス)の役割を強化するために用いられました。

幕末に日本近海で操業した欧米の捕鯨船もボンブランスを持参しており、安政4年(1857年)には北海道の松前奉行がアメリカ捕鯨船の船員と、ボンブランスについて問答したとのことです。


《銃殺捕鯨法》

捕鯨銃でボンブランスを発射して鯨に撃ち込み、捕獲する漁法。

明治15年(1882年)橘成彦の鯨猟会社が平戸島周辺で銃殺捕鯨法により捕鯨を行い、その後、西海などでも試験操業が行われました。

また関沢明清も、房総や金華山沖で捕鯨銃を用いた試験的操業を行ったそうです。

当初は、肩当て式の捕鯨銃とポスカン銃が用いられましたが、後者は程なく用いられなくなりました。


 ※写真は「生月町博物館『島の館』」のもの


<参考サイト>


・wikipedia 日本の捕鯨






《クジラの豆知識》クジラの解体の道具について


鯨組の編成は、大きく「沖場」と「納屋場」に分かれます。

沖場は、海上でクジラを捕獲する組織です。

納屋場は、主に陸上でクジラを解体・加工する場所および組織のことを指します。

その他、クジラを発見するために各地に置かれた「山見」や、諸道具の製作・修理にあたる「船大工」「鍛冶屋」「桶屋」などの職人たちがいたそうです。

 

捕獲され運ばれてきたクジラは、納屋場の前の2カ所の突堤の間に、頭を陸側に付けて引き上げられ解体されます。解体の手順はおおよそ13段階に分かれていたそうです。


※写真は「生月町博物館『島の館』」のもの

 

【轆轤(ろくろ】

各所に配置した人力によるウインチ。背中の皮にあけた穴に綱の付いた鈎(かぎ)をかけ、轆轤で引っ張りながら皮を剥ぐ。

 

【大切(おおぎり)包丁】

切れ目を入れて皮を剥ぎ、その内側の赤身、腹側の皮、大骨(背骨)、と解体していく。


 ※写真は「生月町博物館『島の館』」のもの


【吊り鈎(かぎ)】【モッコ】

解体された皮・赤身・骨・臓物などを、大納屋など各納屋場に運び込む時に使う。


※写真は「生月町博物館『島の館』」のもの


<参考>

・「長崎県平戸市生月町博物館島の館」資料より





《クジラの美味しい部位をご紹介⑲》鹿の子

下あごからほほの辺りにある希少部位。

脂肪と肉が入り混じっていて、脂の入り方が美しい鹿の子模様のようになっています。

上質で甘みがあり、やわらかな食感が特徴。

薄切りにして刺身やすき焼き、はりはり鍋などで食べるのがおすすめ。




<参考サイト>


・クジラ肉の豆知識









《おうちでも簡単!鯨肉実践レシピ⑲》はりはり鍋


大阪の冬の鯨肉料理で欠かせない「はりはり鍋」は、1967年創業、大阪・千日前にあった鯨料理店「徳家(とくや)」が発祥とされてるんやって。

大阪は和歌山県太地から近いこともあり、かつては鯨の流通が盛んやってん。

鯨肉も庶民にとって身近な食材で、はりはり鍋も冬の味覚として愛されてきました。

具材として豆腐や油揚げ、長ねぎを加えたり、〆にうどんやご飯を入れるのも美味しいsですよ!

 

《はりはり鍋の作り方》

【材料】(4人分)

・鯨肉(赤肉):400g

・水菜(京菜):800g

・水:カップ6

・削りカツオ:60g

・酒:カップ2/3

・醤油:カップ1/2強

・砂糖:大さじ6

・みりん:大さじ2

・土ショウガ:適量

 

【つくり方】

・水菜は4~5㎝の長さに切る。

・水を煮たてて削りカツオを入れ、中火で10~15分、アクをとりながら煮て、濾し、濃い出汁をつくる。

・出汁に酒、醤油、砂糖、みりんを加えて煮立て、鯨肉を入れる。

・煮経ったら水菜を入れる。

・水菜にさっと火が通ったら、鯨肉、出汁とともに小鉢に取り、すりおろした土ショウガを添えて出来上がり。好みで七味唐辛子、粉山椒を振りかけても。


 


<参考サイト>


・農林水産省「うちの郷土料理」大阪府 鯨のハリハリ鍋


・日本の郷土料理図鑑 はりはり鍋









<高浜商店の美味しいお魚>



高浜商店オリジナルはりはり鍋セット



鯨肉専門店の高浜商店だからできるお得で美味しい「はりはり鍋」セットができました!

あったか鍋セットで、鯨肉を美味しく食べよう!


「はりはり鍋」とは本来、水菜と鯨肉のみで食べる鍋でした。

シャキシャキの水菜の食感から「はりはり」と名前が付いたといわれています。

水菜は鯨肉の風味にもマッチし、肉から出る出汁ととても相性が良い食材として鍋に使われていたそうです。



ご家庭でお召し上がりの場合、お好みで豆腐やエノキ、油揚げなどを加えてご家族皆さまの好みで色々アレンジしてみてください。


鯨肉が多く流通していた頃はよく食べられていましたが、最近は鯨肉が手に入りにくくなったためか珍しい鍋料理となってしまい、一般の家庭ではもちろん、お店でもまぼろしのお鍋となりつつあります。


そこで!鯨肉専門店の高浜商店から、「はりはり鍋」にぴったりな美味しいセットを販売させていただきます。


特に付属の特製のお出汁は、高浜商店を知り尽くした、仲良しの洋食やなぎさんが、鯨肉に合う出汁を監修してくれています!

これはほんまに美味しいですよ〜自信を持ってお届けします!



内容量

●赤肉(ニタリ鯨)/150g

●本皮(ニタリ鯨)/100g

●鹿の子(ニタリ鯨)/50g

●脂須の子(ニタリ鯨)/50g

■特製出汁/200g



<高浜商店の商品紹介>


高浜商店オリジナルはりはり鍋セット







記事の一部で参考にさせていただきました<長崎県平戸市 生月町博物館「島の館」>



長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

開館時間/午前9:00~午後5:00(最終入館 午後4:30) 休館日/年始(1日、2日)※館内メンテナンスのため臨時休館あり

住所:長崎県平戸市生月町南免4289番地1




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